NORIKO MIYAGAWA

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レペゼンヤマナシ#8
教育は政治から、教師を経て議員へ
宮川典子インタビュー

 

本日は日本における政治の中心、永田町・議員会館に来ています。 近頃は右傾化がどうの、外交がどうの、憲法改正がどうのと、まさに国中が踊る日々が続いておりますのは皆様ご存知のとおり。日本を考えるのは勿論ですが、その上で甲州の人間は何をすべきであるのでしょうか。信玄公だったらどのような手を打ったでしょうか。さてそんな乱世ですが、甲州最前線の本日のゲストは、山梨出身の女性議員の宮川典子さんです。

 

 

<宮川典子さん;プロフィール>
1979年、山梨県山梨市生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、教師として母校である山梨学院大学附属中学高等学校に奉職。5年間務めた後、2007年に退職し松下政経塾に入塾。入塾中に自由民主党山梨県参議院選挙区第2支部長に就任。卒塾した2010年に自由民主党公認候補として第22回参議院議員通常選挙に山梨選挙区から出馬。対抗馬である民主党・輿石東氏に3700票の僅差で敗れ落選。その後、自由民主党山梨県第1選挙区支部長に就任し衆議院に鞍替え、2012年の第46回衆議院議員総選挙に山梨県第1区から出馬し初当選を果たした。

 

 

「教育に興味を持つまで」

――まずは山梨のどこ出身か教えてください。

山梨市出身で、地元の小学校から中学校は甲府にある女子校の山梨英和中学校に進みました。女子校の雰囲気に男っぽい私は馴染めず、男の子もいる方が良いんじゃないかと共学の山梨学院大学附属高校に入学しました。高校卒業後は慶應義塾大学に進学しました。小さい頃は医者になろうと思っていたんです。10歳の時に父親を亡くしたのですが、その父が学生時代医学部生だった影響もあって。

でもその頃は高度経済成長期だったので、一風変わったところがあった父は途中で工学部に入り直し、当時成長していた企業に就職をしました。しかし、一方では、人の命を救うという尊い仕事を自分の息子か娘のどちらかに成し遂げてもらいたいという強い思いがあったようです。小さい頃からよく言われていましたから。父が亡くなって、その時「どうして助けてあげられなかったのかな」と感じた時からずっと、医者になりたいとは思っていて。不勉強だったので道を変えてしまいましたけれど。

そうは言っても一番重要なテーマだと思うんですよね、「死と向き合う」って。真剣に自分自身の人生と向き合ったり、振り返ったりする時期が生命に関わる病気に罹った時でしょうから、そういう人を支える仕事には就きたいと今でも思います。高校生まではそう強く思っていました。大学時代、山梨に帰省している間、幼稚園の園児たちに水泳を教えるバイトをしていたんです。そこで子供たちを見ているうちに、「教育に携わるっていうのも面白いかもなぁ」と感じました。やっぱり教育というのは子供たちのために大人が関わる一大プロジェクトだから深く勉強してみたいなと思って、教育学を専攻するようになったんです。

 

――その時から進路が決まっていたと?

大学2年生の時から教職課程は履修していましたが、学校の先生になるつもりはまったくありませんでした。教育の勉強を進めていくと「これは制度を変えなきゃいけない、システム自体を変えないと現場の先生たちが報われない!」と危機感をもつようになって、文部科学省へ入省することを目指しました。でも大学4年生の時、転機が訪れます。教育実習で母校に戻った時、毎日後輩のみんなが生き生きとしている姿、前日には悩み相談をして帰っても次の日元気に登校してくる姿を見ると、心の底から本当に嬉しかった。「子供たちと関わると、日常の小さなことをこんなにも嬉しいと感じることができるんだ」と思った時に、教育現場の魅力を感じましたね。

 

――それで教師を目指したんですか。

いえ、それでもまだ教師になろうという思いは起こらなかった。それなのに、母校から「山梨に帰ってきて、うちの学校で後輩たちを教えないか?」とお誘いを頂いたんですよ。教師になるつもりがなかった私は、3ヶ月くらい断り続けました。当時、子供たちの人生を背負う自信もなかったですしね。今まで自分が思い描いていた人生展開と180度違ったので「自分の人生、教師のままで終わっていいのか?」という想いとともに、プチ家出をして放浪の旅に出たりもしました。

でも私を教師の道に進ませる決定打は大学のゼミの先生の一言でした。「君はこれまでずっと“教育改革”っていろんなところで言われていることはすべて“机上の空論”だと言ってきたよね?現場の人のために『こういうことを具体的にやらなきゃいけない』とずっと研究をやってきたのに君が現場を経験せずに文科省に入ったら、また机上の空論を唱える人になるんじゃないのか。だとしたら、君がこのゼミで3年間言い続けたことは絵空事だ。だから、1年でも2年でもいい。現場でしっかり子供たちと向き合って、『教育とは何か』『子供とは何か』『成長とは何か』『現場で本当は何をしなきゃいけないか』をしっかり見極める力をつけるべきだ。それがないなら、あなたは今まで批判してきた人たちと同じ存在でしかない。現場の経験のない人に、○○すべきという“べき論”は言えないよ」と。

その先生は元々地元の高校で実際に教鞭をとっていらして、その時の想いを忘れずに研究をしていらっしゃる方でした。だからこそ、その言葉は重く響きました。それをきっかけに「1年でも2年でも、とにかくやってみるか」と、教師になることを決めました。自分が「どうしてもなりたい!」と思っていたというよりも、たくさんの人との出逢いや転機があって教師への道が開けた、という感じです。結局、5年間教師として働きました。個性の強い子ばかりの学校だったので、日々忙しくて大変でした。2年目から担任を持つことになって、初めて持ったクラスに小池君がいましたね。

 

 

 

「幸せな教師生活」

――そうだったんですね。入学前のガイダンス時に長髪だった僕に「入学式までに髪切ってこれるかな?」と申し訳なさそうに言ったのを今でも覚えています。

はじめて受け持つ担任のクラスは、最初いろんな心配もしましたが、生徒が皆良い子たちばかりだったので「こんなに日々幸せで良いのかな?」と心底思っていました。だから、教師生活2年目以降は自分のことはほとんど考えなくなりました。「どこへ行きたい」とか「何がしたい」とか「何を買いたい」とか、自分の欲っていうのがほとんどなくて。今でもそう思っています。とにかく、毎日教室に行くのが楽しみで楽しみで。自分がどんな状況でも、常に元気をもらうのは生徒たちからでした。

その分、3年目で初担任のクラスを外れることになった時は、「世の中にこんな理不尽があるものなのか」と、自分の運命を恨みましたけどね。教師という仕事の魅力は、普通の仕事をしていたら気づかないような小さな幸福感や喜びだったり、自分じゃない人のことを心の底から喜べるようになるということだと思います。

 

――教えられている側はなかなか気づかないものなんです。毎日「眠いなぁ」とか「今日の弁当は何かな」とか考えてるんですから。先生がたの愛や情熱はリアルタイムというより、じわじわ効いてくる側面があります。まさに今じわじわ来てるところですよ。5年間の教師生活を終えるきっかけについても教えてください。

あのまま行けば、多分ずっと、今も教師を続けていたと思います。でも、生徒みんなの将来のことを思うと色々考えることがあって。例えば、高校を卒業して大学に行った卒業生が、夏休みとかに母校に遊びに来るじゃないですか。そこで、「人間関係や就職活動が上手くいかない」という相談を受けるんです。高校時代に見たことがないような表情をして、「何でもっと僕たちに生きる力を与えといてくれなかったんですか」と言われたりするんです。

確かに、社会に出る時には大変ながらそういう経験をしなきゃ人間は成長しないのだけど、日本の社会はあまりにも努力が報われない社会なんじゃないかなって。私の世代も“就職氷河期”だなんて言われていたけど、あの時よりも「もっと氷河期、永久凍土みたいな世の中になってしまうんじゃないか」と、卒業生の様子を見ていて思ったんです。いじめや何かではなく、一生懸命努力しても成績が伸びないとか、これから社会の中で生き残っていけるかという不安感を持つ子がすごく増えた。

 

――なるほど。

本当なら、生徒たちが何歳になっても、 私たちが毎日「大丈夫、安心して夢を持て。努力すれば必ず叶うから。」と言ってそばで支えてあげたいと思うんだけど、社会に一歩出てしまったら教師が彼らを支えられることなんて10の内1か2くらい。あとの8や9をどうしたらいいかというと、世の中の仕組みとか政治が手厚い支援をするという単純なことでなくて、若者が自分の力で道を切り拓けるような社会にしておかないといけない。そうでなければ私たち教師の言っていることはまことに空虚だし、子供たちが報われないですよね。

「そういう世の中で在るべきではない」という想いから学校ではないところで勉強したいな、と。「今、生徒たちが足を踏み入れていく社会というのは10年前に自分が経験した社会とどう変わったんだろう」というのを純粋に学びたくて。文献を読み込むとか論文を書くとかということではなくて、現地現場で学べるところはないかなと模索していた時に見つけたのが、松下政経塾だったんです。見つけたのが願書締め切りの4日前だったから、資料請求して論文を書いて願書を出したのが締め切り時間の3分前。窓口で「ほぼアウトですよ」と言われましたがどうしても諦められず「いや、3分前です。セーフです。よろしくお願いします」と押し切りました。

 

 

「教育は政治から」

――松下政経塾に在籍されていたときはどのような日々を?

毎朝6時に起きて、ラジオ体操をして、塾生5人くらいで敷地6000坪の掃除、それからランニング3キロもしていました。毎日、朝はこれの繰り返し。剣道・茶道・書道も必修でした。農業研修、漁業研修、林業研修、陸海空全部の自衛隊研修とかもやりましたよ。あれは大変でしたね。

 

――ホフク前進なども?

そうそう。木の模擬銃を持ってね、「第4ホフク!」とか言って「撃てっ!」の合図で「だー!!」と走っていったり。あとは、降下練習もしたかな。地上15メートルのところからロープで降りるっていう。一気に降りなきゃいけないから怪我することもあるみたい。だから降下の踏切地点にいる教官が「辞世の句を言え」と言うの。私は「将来の子供たちのことはみんなに任せたぞー!」と言ってドドーンと飛んだりして。でも、意外と降下訓練は得意だったけどね。

 

――先生、なかなかワイルドだったんですね(笑)。

それから非正規雇用の方たちと一緒に、窓ガラスの端にあるゴムパッキンを毎日朝8時から夜6時くらいまでひたすらはめるという、単純作業をやり続ける研修もありました。こちらもそれなりには社会人経験を積んできているわけなんですが「頭の中詰まってたってこんなこともできねえのか。情けねぇ」と怒られるわけですよ。ものづくりに携わる人にとって、欠陥商品を出すなんて言語道断ですからね。立ちっぱなし、危険と隣合わせ、かといって正規雇用ではない。ある時疲れていた私は現場の人に「この仕事、楽しいですか?」と訊いたんです。すると「別に疲れないけど」と言う。慣れてるからかな、と最初は思っていたんだけど「だって家を作るって夢のあることでしょ。例えば、自分が作業した窓がある家にどういう人が住んで、どういう人がこの窓を覗くのかなって想像したら、すごく夢がある仕事でしょ」と言われたんです。

この時「自分は本当に世の中の細やかな部分を知らないな」と恥ずかしくなりました。給料は安いし、生活は保障されない仕事だけど住んでいる人を想像して夢をもって仕事ができる。「喜びっていうのは何処に見つかるかわからないんだな」と思った時に、こういう人たちが希望を持って働ける社会にしなきゃなと強く感じました。

そのあともその作った家を売るための営業の仕事も経験したのですが、まぁ全然売れない。一生懸命アピールするけれど生産者と消費者の立場は違うんです。日本のいい物が売れなくて質は劣るけど安い外国産の物がどんどん売れていく。こういうことは現場に入って体験しないと絶対に分からない。こういう専門外のことも経験して、たくさんの人に会って指導を受けたりとても一個人ではできないことや松下幸之助先生が創ってくれた人脈が、創立28年後の私たち28期生にも残っていて。その恩恵にあずかることができたことは何ものにも代えがたい経験になりました。

 

――なかなか壮絶なご経験です。卒業後は議員になることは決めていたのですか。

最初は、山梨で不登校やメンタルの不安定さに悩む子たちが学べる学校を、自分で開校しようと思っていたんです。でも、2009年の政権交代があって、自分が目指している日本や教育の姿とまったく違うものを追い求める人たちが政権を取ってしまった。その時はある地方自治体の教育委員会に特別研究員として勤めていたんですが、2週間くらいしたらガラッと方針が変わったんですよ。もう私にとっては受け入れられない考え方で生徒より大人さえ良ければいいという考えに変わってしまったというものだった。そう感じた時に「やっぱり政治だ」と。政治の根幹をしっかりしておかないと現場で頑張っている人たちはいつまで経っても充実した実感を得られないのではないかという想いが一気に大きくなったんですよね。

しかし、私のような知名度も潤沢な資金もない若輩者が国政選挙に出られるなんていうチャンスはなかなかないわけです。でもちょうどその時、自民党山梨県連が初めて公募で候補者選考をするということを聞いて、自分自身も半信半疑で応募してみたらありがたいことに候補者として選んで頂けたんです。それが30歳の時。「おまんは頭がおかしいだか」(甲州弁でお前は頭が狂ってるのか、の意)とよく言われましたよ。本当に毎日何十回も。政権をとられた自民党、30歳無名の新人、お金は無い、知名度もない。当時、自民党所属国会議員は山梨に1人もいませんでしたからね。毎日怒られたり、時には叩かれたり。大逆風の中ではそんなことが当たり前になっていました。他党の支持者の家に挨拶に行ったりなんかしたら真冬でも水をかけられたりもしました。教育改革をしたいと説いても「おまんの仕事はそんなこんじゃねえ、どんだけ山梨に金持って来れるだ?おらんとこの前の道を30センチ広げてみろ。それができねえ奴は政治家じゃねえ」と。

それでも、金権政治は絶対しない、主張は曲げない、つらいからと言って別の党に移ったりしない、という決心は揺らがなかった。これからの若い人が「政治に参画しよう」と思った時に「あの時、宮川典子が粘ってくれたから自分たちはきれいな選挙ができるし、言いたいことを言って故郷のために活動できるんだ」と思ってもらえるような環境にしたかったんです。3年前、参議院議員選挙に落選してからは本当に無収入の無職になって。慶弔費の捻出にも困って、なけなしの貯金を崩したり、短期バイトをしたり。職がないというのは苦しかったですね。毎日ひいひい言いながら、全ての活動業務を全部自分でやらなきゃいけない。とても心細かったし大変だったけれど、その姿を見て応援してくれる人がまた現れてまた新しいチャンスをもらえて。まさに「捨てる神あれば、拾う神あり」の心境でした。でも、そういう日々の積み重ねがあったから今こうして議員バッチをつけて仕事をすることができているんです。本当に、支えてくださった皆様のおかげです。

 

――まさか無職・フリーター・ニートの現場まで体験していたとは思いませんでした。議員の地元との歪んだ関係の問題というのは、映画『サウダーヂ』にも描かれていましたね。それでは最後に山梨の若者に一言お願いします。

私たちの世代、それよりももっと若い世代の人はこれから生きていく上でさまざまな決断をし、時には苦渋を味わうこともあるかもしれません。でも、そんな時ほど「順風満帆な人生よりも艱難辛苦の多い人生のほうが明らかに自分のためになる!絶対的な仲間も増える!」と信じて突き進んでほしいなと思います。私自身も落選したからこそ見えた自分・モノ・考え・ヒント・出逢いがたくさんありました。だから浪人中の2年5ヶ月は無駄ではなかったと断言できます。こんなに「感謝」とか「ありがたい」という言葉を口癖のごとく言うようになったのも、あの2年5ヶ月があったから。 山梨はもっと若い人たちが頑張らなきゃいけない。誰かが立ち上がるのを待っているのではなく、思い立った人が行動に移してほしい。そして「初めて」には壁がつきものですから、そんなことは承知の上でチャレンジするくらいのタフさを持ってほしいと思います。

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