KATSUYA TOMITA

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――本日は東京都内、京王線沿いのとあるカフェに来ております。本日のインタビュー第11回目のゲストは映画「サウダーヂ」でお馴染み、空族の富田克也監督です。よろしくお願いします。

よろしくおねがいします。

 

 

 

 

 

ツッパリジュニアハイスクールロケンロー

 

 

――まず山梨のどちら出身か教えてください。

今実家は大月なんですけど、幼稚園も小学校も中高も甲府でした。

 

――中高はどんな子どもだったんですか?

中学校は南西中学校でした。野球部に入ってそこそこやってはいたんですけど段々行ったり行かなかったりになって、結局バンドツッパリ少年でしたね。そり込みとかも入ってた。当時はバンドブームでBOOWYとかが凄い流行ってて。あの頃はバンドとツッパリの文化が融合してたから。

 

――ツッパリジュニアハイスクールじゃないですか、それ(笑)。

そうそう。セックス・ピストルズとか日本のバンドならラフィンノーズとかを聴いてた。ブルーハーツとかはちょっと流行りすぎてて嫌で。高校は東海大甲府に進学したんだけどその延長な感じでバンドをやってました。野球部は強豪だから俺みたいな半端な奴はおよびでないし。

 

――当時から映画を観たりしたとか。

まあ人並みにですよね。甲府の映画館で観ることのできる映画はかなり限られていましたからね。ハリウッド映画とか角川映画とか。でも良く覚えているのは『アキラ』。当時、元々成人映画館だったテアトル甲府が一般映画も公開するようになってたんですよね、そこで観たんですけど。それまでアニメって子ども向けのイメージしかなかったんですよ、ドラえもんとか。でもアキラは全然違ってたから。映画館を出たはいいけど、なんだったんだ今のはと、友人と便所の窓から忍び込んで戻って、もう一度観て家に帰ってから内容について話し合ったりしました。『サウダーヂ』主演の毅とですけどね。

それからもうひとついうと、当時甲府の映画館は一回一回客の入れ替えをしなかったんですよ。だから映画の見方も適当で、始まる時間を過ぎてても途中から入っちゃう。で、次の回で前回途中から観たところまでを観て帰るみたいなめちゃくちゃな見方をしてました。クライマックスから先に観ちゃって、それがどういう過程でそうなるのかを後で観るとか、余裕でやってました(笑)。今は嫌ですけどね。でもこれ、実は映画を作るようになって思うんですけど、この見方をしてきたことがどういう風にかはわかんないけど役に立っている気がする。いや、ダメな方にかも知れないけど、なんか影響があるような気がしてます(笑)。

 

 

 

――なるほど。

更に、一本の料金でかならず同時上映の作品がセットになってたから、目当ての作品とそうでないものを強制的に観ることになる。結果的にこれもよかったですよ。ジャッキー・チェンの映画を観に行ったら、「猛獣大脱走」っていう映画を観ることになったんだけど、映画を観ていて初めて吐きそうになって便所に駆け込んだ記憶があります。人間がライオンの群れに四方に食いちぎられるシーンで。高校生になってからは、たとえば学校サボって一日中映画館の中にいることもありました。「ロッキー4」とかね。そんなふうにして何度も繰り返し映画を観るというのがおもしろいということに気づき、習慣になっていったんだと思います。

 

――その後上京されると思うんですが進学されたんですか?

高校卒業してからやっぱり上京したかったんですよ。バンドがやりたくて。でも田舎から東京へ出るっていうのは理由が無いと中々出づらいじゃないですか。俺、小学6年生の時、絵のコンクールで県の特選に選ばれたことがあったりして、絵を書くのは好きだったし得意だったんですよ。だったら美術系の専門学校にでも行くかしかない、と親を説得するための売りはこれしかなかったから。そういう理由を付けて上京することに。

 

――ああ、なんとなく理由を付けたんですね。

それに当時は今と社会状況がまったく違ったんですよ。仕事も山ほどあるし大学進学が当たり前、受験戦争でどこまで昇りつめるか、あげく3高(高学歴・高収入・高身長)がいいてっていうご時世。今あらためて言ってみると酷いなこれ、高身長ってなんだ(笑)。でも、こんなクソみたいなことみんな平気で言ってましたからね。んで、こっちは反抗心の塊みたいなもんだから大学なんて行ってたまるかとなりまして。

でも結局上京の口実に専門学校入ったはいいけどついていけないんですよ。課題とかも多いし元々本気でやるつもりも無いし。だからすぐ辞めてそこから東京でパンクバンドをやりながらバイトをしてました。当時は色んな求人雑誌があってそのどれもが分厚かった。月給100万円なんてざらにありましたよ、勿論怪しい仕事なんだけどね(笑)。だけど東京は俺には合わなかったんでしょっちゅう理由つけて山梨に帰って友達と遊んでましたね。昔から流行り物に飛びついてぎゃーっとやれる人間じゃないし。ただバンドやるためになんとか居ただけであって。

でも段々バンドも上手く行かなくなってきて音楽も自然消滅していくのが20歳前後くらいかな。でも後から振り返ると、このあたりで、少し前に崩壊したバブル経済の余波が地方都市である山梨に及びはじめるわけ。その影響を大きく受けたということです。じゃ音楽やめてどうするのというとこで、東京も好きじゃなかったけどかといって山梨に戻るのかというと、あんなクソ田舎と思って逃げるようにして出ちゃったからね。後は意地になって東京に居ながらバイトしてギリギリ食って引きこもって映画ばっかり観てました。

 

 

友&愛/伊藤さんの思い出

 

――もともと映画には親しまれていましたよね?

映画は元々人並みに観ては居たんだけど、東京に来たとたん甲府では観れなかった映画が沢山観れるようになるわけです。映画館も大手からミニシアターまで今より更に多岐に渡っていたし。でも最初はビデオレンタルでしたね。友&愛っていうお店が当時あって、行くと観た事もない映画がずらっと並んでるの。それでやたら通うから店員のお兄さんと仲良くなったりして。マニアな店員さんが責任者級でやっているいいビデオレンタルに当たるといいんだよね、品揃えがさ。いまでこそ大手に軒並み潰されちゃったけど、当時は引っ越すたびにいい個人経営のビデオレンタルが近所に必ずあった。俺はなにも知らないから一貫性もなくやたら借りてくわけ、マニアのお兄さんからしたら微笑ましかったんじゃないかな。「あれどうだった?」「これ面白かったです」「じゃあ今度これ観たら?この監督の映画ははずれが無いよ」とロバート・アルドリッチを教えてもらったりした。

 

――友&愛って文化人の先輩のインタビューとかでよく目にしますね。まだツタヤじゃないんだという。というか山梨県人ならディーンを思い出してほしいですが(笑)。そしてそれから映画をどんどん掘り下げていくと。

そう。それからはただ観てるだけじゃなくて系統立てて観ていくようになりましたね。これはイタリア映画これはフランス、これはアメリカの古い映画、日本映画とかね。あとカルチャー雑誌が前は山の様にあって。例えば「スタジオヴォイス」とか。そのジョン・カサヴェテス特集号とか読んで、「ハリウッドシステムに反抗し続けたインディペンデント映画の父」「スクリーンをナイフで切ったら血が滲んでくるかのような」とかってついてるキャッチコピーにもググっと来て、今は無き六本木シネ・ヴィヴァンでのレトロスペクティブに馳せ参じるって具合にね。そんなふうにして、こんなに自分の知らない映画があるのかと浴びる様に映画を観まくっていく日々のなかで、ある時「あれ、俺、作りたい」と思い始めたのが22歳の時かな。

 

――ついに!それにしても富田さんは反抗心=パンクスの精神を強く持ってる様に感じます。

うん、結局何かがやりたかったんですね。田舎で嫌だし、何にも無いからツッパってそり込み入れたり、バンドでロックスターになりたいとか、最終的に反抗することさえできれば何でもよかったんですよ。でもね、じゃあ中高生のころにツッパってみたりして、それを反抗とか呼んだりしますけど、それって本当の反抗なのかと。暴走族もツッパリも結局はなんの反抗もしていないじゃないかと。18歳とかそういう年齢で卒業することがわかった上でのことで、その後、高級車にゴルフバッグ積んでみたいになって、結局金に回収されていくだけで。そういうのが嫌だったんですね、とにかく。

 

 

――なるほど。

だからといって、いきなり映画作りたくなったっつってもどうやったらいいかわからなくてね。そんな時にたまたま、日芸(日本大学芸術学部)の映画学科を大学院まで出た伊藤さんって人と知り合った。だから映画の撮り方を訊いてみたんです。そうしたらその人が突然レヂュメのようなものを書いてきてくれた。小津安二郎のことが書かれてました。当時、その名前だけは知っていたもののまだ観たことがなかったんだけど、例えば<小津安二郎の作品は、向かい合った人物同士の会話の切り返しで、意図的に互いの視線がずれあうようにカットバックされている、それは何故か?>というふうな流れではじまって、最終的に<要するに映画は何をやってもいいんだ>というまとめになってました(笑)。

その後も伊藤さんは北野武映画についてのレヂュメをくれたりして。<歩いたり走ったりしている武が角を左に曲がると事件が起こる>とか、書いてあるわけです。伊藤さんは卒論が北野作品だったそうで、いろいろ研究したんでしょう。マジかよと思って見直したりしましたもん。もちろん当時、「その男、凶暴につき」は観てるわけです。僕ら世代のヒーローですから北野武は。

そしてある日、伊藤さんはボストンバッグに入ったソニーのHi-8カメラを貸してくれるんです。その頃、ソニーは初のデジタルカメラであるVX1000を発売した直後だったんですけど、伊藤さんはデジタルの雰囲気が好きじゃないといって、その前の機種をわざわざ探して大事にしている、という代物でした。それを、これで撮りなよ、ってポンと貸してくれたんです。

 

 

 

――なんて良い人なんですか(笑)。

その後、伊藤さんは現役日芸生が卒業制作の真っ最中だから潜り込んでみる?といって紹介もしてくれたんです。それで徐々にそういう輪の中に入っていくことになるんですけど、俺なんかなにも知らないからよく馬鹿にされましたよ。むかつきましたけど、映画を学ぶためだとひたすら耐えてましたね。そこから派生して知り合ったのが、その後空族として行動を共にすることになる高野貴子と井川拓のふたり。彼らは俺があんまりバカだから面白かったんでしょうね、まわりにいないタイプの人間だっただろうし。だからぐぐっと仲良くなって、俺はこのふたりから映画だったり文学だったりっていうのを教わったんです。

その後は、皆のやりたいことを順番に撮っていくということになるわけです。次は井川が自分で監督したいと言いはじめて、俺が伊藤さんに借りていたHi-8を貸してほしいというので、よくないことだと知りながら、しかしこれを終わらせずして俺の順番は回ってこないと思い勝手に又貸ししたんですよ。井川はカメラをリュックに入れてバイクで走り去ったんですけど、30分後に何故か戻ってきた、青い顔して。リュックのファスナー閉め忘れてカメラを落とした、慌てて来た道を戻ってみたけど車に踏まれてすでにぐしゃぐしゃだった、と。

とにかく弁償しなきゃと中古屋とか中野ブロードウェイとか探し回ってもどこにも無い。新機種のデジタルはあるけどアナログ最後のあのカメラは何処にも見当たらなかった。今みたいにネットオークションでってわけにはいかない時代ですからね。伊藤さんのHi-8への気持ちは知っているから、もう謝るしかなくてね。でも結局、大丈夫、と許してくれた。

 

 

 

空族誕生

 

――どこまでいい人なんですか(笑)!!

まったくね。恩人というのは、後になってしみじみそう思うって場合もあると思うんですけど、伊藤さんはまさにそうですね。結局借金して弁償する形で新機種のVX1000を買ってそれで初めての自分の映画を撮ることになるんです。高野や井川にも手伝ってもらって。主演は山梨の時からの友人である鷹野毅と伊藤仁のふたり。その時は皆で上北沢という駅周辺に住んでたんです。たまり場みたいな部屋があって、そこでの生活を元にした映画を作ったのが初めての習作。その後もその仲間で映画を作り続けて行きます。 そして、相澤虎之助(「国道20号線」「サウダーヂ」共同脚本)とも出会っていく。

虎ちゃんと初めて会ったのは、井川の監督した作品の上映会でした。慶応大学の視聴覚室みたいなところだったんですけど、そこにスカジャン着てバイクで乗りつけてきた。それまでは、しっかし映画をやってるやつらってのはメガネのガリ勉みてーなのしかいねーなと思ってたんで、虎ちゃんには同じ匂いを嗅ぎとったんでしょうね。そりゃそうだよね?ダメだよねそんなんばっかじゃ、と意気投合していくわけです。その後、俺の処女作になっている「雲の上」(2003年)の撮影から虎ちゃんが加わってきてくれるんですけど、それが今の空族の原型ということですね。

 

――日大芸術学科、慶応、早稲田、という学歴が並ぶ中で富田監督以下山梨勢は所謂学歴が良いとは言えないじゃないですか。馬鹿にしてるわけではなく、この奇跡的なバランスがその後の爆発力に繋がっていくんだと思います。

うん、当時俺は学歴高いやつを見下してたからね(笑)。それから、ユニットバス職人、トラックの運転手をやりながら土日を使って映画を撮影するということが日常化していったんです。これが「雲の上」(2003年)、「国道20号線」(2007年)、「サウダーヂ」(2011年)と、続いていくわけです。最初の作品になった 「雲の上」は25歳から30歳までの5年かけて完成させたんだけど、同時進行していた虎ちゃんの「かたびら街」もほぼ同時期に完成したんです。そこまでは、一心不乱に作ってきたけど、これどうすんのって。こんなに手間も時間もかけちゃって作ったはいいけど、作ってる時はその後どうするかなんて考えもしないでやってたから。

作りたいから作っちゃったはいいけど、そうなったら人に見せたくなるのが人情ってもんでしょう?だから一緒に上映会をしようって話になった。でも2002年当時は今とは状況がまったく違って、当然劇場は35mm映写機のみしかない。自主制作映画の、しかも8mm撮影の作品を劇場で上映するなんて考えもしない。でも渋谷のアップリンクだけ唯一ビデオプロジェクターがあったんですよ。しかし当然劇場公開なんて形はとれないから1晩7万円とかで貸しホールとしてバンドみたいに借りてチケット売って回収するみたいな事で、ふたりの監督作を同時上映する「選べ失え行け!」っていう自主上映会を月1で7ヶ月やりました。

結局はお客さんなんて来ないからほぼ自腹でしたけどね。その頃から、なにか対外的に名乗れるものがあったほうが、ちゃんとしてるっぽいだろということで、「空族」と名乗ったんです。

 

 

――バンドの経験やノウハウが無駄にならなかったんですね。

そうね。その後次作の「国道20号線」が完成した時は段々劇場がプロジェクターを装備し始めた時期だったので、それまでに付き合いができていたアップリンクならということで「劇場公開の形をとりたい」とお願いしてみたんですよ。そしたらロードショーでやってみますか、と。

それからは空族で宣伝もやる。フライヤーも自分たちで作る、ひたすら雑誌とかに記事を扱って欲しいと営業かける。やれることはすべてやりましたね。もちろん、門前払いのところもあったけどいくつか取り上げてくれる媒体もあって、1日3回廻し4週間のロードショーをやりました。

 

 

拡大する「ローカル」

 

 

――処女作から最新作まで、ずっと国道20号線沿いを舞台にした物語を製作したきたのはなぜですか?

結局今もそうなんだけど土地へのこだわりというよりもはじめから一貫してるのは、周りにいる自分の仲間を撮りたいっていうことです。すると必然的に背景に映るのは甲府であり、山梨の何処かになる。だから最初作った習作も彼らが住んでるのが上北沢だったから映ってるのは上北沢。その後ふたりが山梨に戻ったから彼らを撮りに山梨に通うっていうふうになってく。そうやって何年も通っていくうちに山梨の状況の変化が見えるんですね、外に住んでいるからこその。

特に「雲の上」の3年間でみるみる変わって行った。国道沿いにあからさまに建った消費者金融のATM、パチンコ、ショッピングセンター、ドンキホーテ、ツタヤ、ユニクロ、牛角とかがどーんどーんと建ってそれだけしか無い。それを見た時に「国 道20号線」のアイディアが浮かびました。段々と、彼らの背景に在るものや置かれた状況に意識的になっていくんです。だから「サウダーヂ」を撮る時はちゃんと甲府を1年間リサーチしてから撮影を始めました。

 

―僕は本当に「サウダーヂ」には痺れた者のひとりです。なんせイオン建設予定の広大な更地に土方がふたり、訳も無く中心に向かって走って行きスコップを突き立てたあのシーンに何とも言えない興奮を覚え、スクリーンを出てそのまんまこの甲州最前線を立ち上げたので(笑)。

(笑)。要するにその土地に根ざして長い時間をかけて物を作っていくと当然その変化っていうものが映画に入ってくるんですよ。自分たちみたいに3年とか長いスパンかけて撮影をすると特にそうですよね。「雲の上」でも3年の間に、劇中象徴的に描いていた団地が途中で解体されて新しいアパートが立ち並んじゃうんだけど、結局それも映画に取り込んだ。土地で実際に起こる事件だったりハプニングを活かすっていう方向になっていくの。

「サウダーヂ」では、それまで自然と実践してきた俺たちにとっての映画作りを意識的に推し進めた結果、ブラジル人やタイ人たちが映画に入ってきたし、土方を中心に展開していく事ストーリーになったわけです。イオンのシーンも、シナリオの段階では釣堀での設定だったんだけど、なんか弱いなと思ってて。そしたら、毅と仁があの場所を見つけてきて、ここしかないでしょ、と急遽釣堀のシーンがイオンの建設予定地になったんです。

 

――次回作についてもお聞かせいただけますか。

次回作はオールタイロケ。タイトルは「バンコクナイツ」。「なんで次はバンコクなんですか?」ってよく訊かれるんですけど。過去3本の舞台が山梨だったから土地にこだわりがあると思われてるんだろうけど、それだけでもないんです。目の前にある出来事を掘り下げていくと、それが必ずどこかに繋がる。それに従うというのが空族のスタンスだから。

「国道20号線」以降、語り口として「地方/都市」っていう図式がよくありました。俺も当初はそう思ってたんだけど、例えば地方では、パチンコ屋、ATM、牛角、ドンキ等が平面に広がってるけど、東京ではそれが垂直のビルの中に入ってるってだけで、実はあまり変わらない。だから自分たちの中で「地方/都市」という“ものさし”は意味を成さなくなってなってしまったんですね。「国道20号線」を撮り終わった時にあれは山梨だけじゃなくて、現在の日本の大部分の姿なんだってことに気づいた。すると今度は、日本ということを考えようとするときの“ものさし”必要になってきた。そうなると次は日本も含めたアジアという“ものさし”が必要だということになったわけです。

今までの作品を撮る事で「ローカル」というキーワードは確かに見つけた。けれどその視点で見たら東京だって「ローカル」だろう、と。日本という「ローカル」、この視点を持って「バンコクナイツ」へ向かうことになります。

 

 

 

――それでは改めて現在の山梨について思うことを教えてください。

「サウダーヂ」以降、状況は更に悪化の一途を辿っていると思います。それは山梨だけじゃなくて日本全体がですけどね。現政権がやってることについては、かつてないほどの危惧を感じています。3.11以降、人々の間に一瞬沸き起こった「さすがにこのままではまずい」という変革の意識が、安倍政権の嘘、金の魔力によって完全に潰されようとしている。繰り返しますけど、それはかつてないほどの規模で着実に進められようとしています。原発再稼働、秘密保護法案、憲法改悪、集団的自衛権行使等々、もはや民主主義を棄てようとしているようにしか見えませんよね。これは本当に取り返しのつかなくなる前に、もういやだ、という声をそれぞれがあげて意思表明をしていかなければいけないと心底思っています。

 

―ありがとうございます。それでは最後に山梨の若者に一言お願いします。

立ち上がれ!Get up stand up, stand up for your life, get up stand up, don’t give up the fight. 誰かに期待などしている暇などない!もういやだ!立ち上がれ!

 

 

富田克也(とみたかつや) 1972年山梨県甲府市生まれ。

制作期間5年を費やした処女作『雲の上』(2003)を発表、この作品が「映画美学校映画祭2004」にてスカラシップを獲得。この賞金を原資に『国道20号線』(2007)を発表、高い評価を得る。
その頃より、それまで行動を共にしてきた仲間たちと共に、大手制作会社による映画ビジネスとは一線を画して、制作・配給・宣伝まで全てを自ら行う、映像制作集団「空族」を立ち上げる。
『サウダーヂ』(2011)も同じ体制で制作されたが、自主制作にして異例のロカルノ国際映画祭メインコンペティション正式出品を皮切りに、ナント三大陸映画祭グランプリ、国内では毎日映画コンクール優秀作品賞、監督賞をダブル受賞。2012年フランスにて全国公開された。国内でのロングランは3年目に突入している。
映像制作集団「空族」ホームページ http://www.kuzoku.com/
映画「サウダーヂ」http://www.saudade-movie.com/

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