GOMI FUMIKO

GOMI

――本日は東京は新宿に数多あるスターバックスのサザンテラス店に来ております。本日のゲストはシンガーソングライターで「こうふのまちの芸術祭」発起人の五味文子さんです。よろしくお願いします。

よろしくお願いします!

怒れる女子高生

――それでは出身など教えていただけますか?

生まれは、山梨県甲府市の味噌屋なんです。小さい頃は今はもう無くなってしまいましたけど、富士川小学校に通っていました。その頃は体が弱くて、割と内気でしたね。でも走るのは得意で持久走とかはいつも一位でしたけど(笑)。
中学校は英和中学校でした。親がOGだから私も入学することになったんですけど、当時は反抗期そのもの。パンクスでした。ファッションも。
なんかもう「くそー!」っていう怒りがあったんですよね。学校の良くわからないシステムみたいなものに純粋に反発していたんです。「なんで校則があって、何で制服のスカート丈とか靴下が決められて、先生の言うことも納得できないし、訳がわからん!」みたいな感じ。

――ということはスカートを短く履いて反抗していたとか?

いえ、逆なんですよ。当時はギャルファッションが流行っていたんですけど、皆が一辺倒にルーズソックスにミニスカートみたいな感じも凄い嫌で。BMX(自転車)で通学したりして色々模索してたんです。「何だこの学校は!」っていう風にずっと思ったのが、段々「何だこの国は!」っていう風になっていきましたね。
そんな怒りを学校の美術の時間、作品に当てていたんです。どっかんがっしゃん、みたいな(笑)。そうしたら当時の先生がそんな私を面白がってくれたました。それがアートとの出会い。
その後、先生の美術教室に通い始めて最初に発表した作品が「地獄」っていう名前だったんですけどね(笑)。

――パンクスを通り過ぎて、デスメタルじゃないですか。

はは。そんなこともあって中学校3年生の時に甲府のロータリークラブに応援してもらって、ハンガリーへ1年留学させてもらいました。そこでとても良いステンドグラスの先生に出会ったんです。彼に気に入ってもらって8ヵ月勉強しました。現地人と違う感覚の日本人だから面白がられたというのもあるかもしれないです。
ジュールという小さい街にいたんですけど、そんな小さな街でも映画祭があるんですよ。そこで映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観て感動しました。音楽ならレゲエのボブマーリーに感銘を受けたり。やっぱアートって面白いな、と思いましたね。
あと、ステンドグラスなどを勉強していくうちにハンディクラフト(手工芸)の面白さに気づいたんですよ。それまではアンチ日本だったんですけど、日本の伝統工芸を調べたら「ヤバい、沖縄は宝の山だ」とか思うようになった。

生活の中の民芸を求めて

――帰国してから学校生活は変わりましたか。

そうですね、留学したので1つ下の学年になりました。でも、やっぱり好きな事ができたからなんですかね、怒ってる場合じゃなくなった。丸くなって仲間ができたりして。Hi-STANDARDのコピーバンドをやったりとか。
勿論アートもやっていて、大学は沖縄県立芸術大学へ進学を決めたんです。日本の伝統文化の成り立ちって外から入れて中で解釈して、育てて、よりよくしていくっていうところがあるじゃないですか。それが凝縮されているのが沖縄なんじゃないかと。それまでの反動みたいなところもあるかもしれないですね。ただ、今でこそ説明できますけど当時は「沖縄が私を呼んでるぜ」くらいの感覚だったと思います(笑)。

――反動すごいな(笑)。

大学では織物を研究してました。でも私が夢に描いてたのは博物館の作品というよりも「生活の中の民芸」みたいなものだったんですよね。ちょうどそんな時、沖縄で街中のアートフェスティバル「wanakio」がやっていてボランティアとして参加したんです。訳のわからない外人アーティストとかが市場でミミズ飼って「アートだ!」とか言ってたりするのがすごく面白かった(笑)。
それで作品を作って発表するというよりも人と関わることによってできるアート性が面白いと思ったんです。自分でもそれをやりたいなと思って始めたのが「けいどろ」で。

――遊びのけいどろですか?

そうそう。遊びでやる警察と泥棒の「けいどろ」です。 いつの間にか大人になってて普段歩く街並みってただの風景だけど、いざけいどろを始めたら「ここ隠れられる!」とか「この道危ないから逃げる時気を付けよっ」とか遊びの視点でワクワクできるんです。それに凄い感動して。
そこで自分達でも何かやりたいと、大学の女子5人でcotefっていうオルナティヴスペースの運営を始めたんです。そこでも変なイベントをよくやってましたね。段々と沖縄アンダーグラウンドの人が集まる場所になっていきました。家賃も発生していたけど、凄い安くて何でもできるからとても楽しかったです。2年くらい運営しましたね。
あとは「K’DLOKK」っていうユニットも結成して、私はエレキギターでぎゅいんぎゅいんなノイズを出してました。

――その後就活などは?

しませんでしたね。卒業後は青年海外協力隊としてアフリカのジンバブエに行く予定だったんです。だから卒業後、半年間の猶予があったので東京の親戚にお世話になりながら工芸のフェアトレードを勉強したり、ようかんで有名な日本橋のとらやでバイトしたりして準備をしていたんですよ。その時期にギターだけじゃなくて歌も歌い始めたり、ライヴもたくさん観たりしてましたね。東京がとても楽しかった。
でも、ジンバブエが経済破綻してしまって結局海外には行けなくなっちゃったんですよ。それと同時くらいに私も破綻しちゃったんです。23歳だったのに糖尿病って診断されて。

――それ、とらやのせいなんじゃないですか(笑)

いやいや(笑)。でもまあ「行くな」っていう思し召しとしか思えませんでしたね。

生活の中の民芸を求めて

ジンバブエに行くためだけの半年だったのでとても困ったんですけど、ちょうど沖縄の頃から関わらせてもらっていたアサヒ・アートスクエア(東京のアートスペース)でイベント運営するスタッフを募集していたので「何でもできます」と働かせてもらうことになるんです。そこでもダンスとかたくさんの面白いものに出会いました。
山梨でも「やまはすき やまへすき やまほすき」(2008年)っていう音楽イベントを企画したんです。甲府の桜座と北杜のGallery traxっていうところで、好きなアーティストを東京とか京都から呼んで2日間。凄く楽しいイベントだったんですけど、それが終わってから私一週間くらい寝込んじゃって。精神的に凄く疲れてしまったので東京での仕事も辞め、沖縄に戻りました。
でも一か月くらい沖縄の雰囲気に触れたらすぐ元気になったので、もう一度アートスクエアで企画を再開しました。ちなみに私の後任の人も鬱で、すぐやめちゃったらしいです(笑)。

――僕もイベントオーガナイズしてるんですけど、運営側の神経すり減る感覚はやんないとわからないでしょうね。集客とか続ける大変さとか。

ですね。そうは言っても、復帰してからは待遇も良くなっていい感じになってきたんですよ。でもやっぱり世界で自分を試したいと思って、青年海外協力隊に行くことをもう一度考えました。今度はジンバブエじゃなくて、英語が話せるベリーズという国に行こうと。
そんなこともあってまた仕事も辞め、自由な時間が増えたので第一回目の「こうふのまちの芸術祭」をその時に企画したんです。

――きた!でもなぜ甲府の街を舞台にしようと思ったんですか?

もともと金川の森で富雪ギャラリー(甲府市)の池戸さんがアート展をやっていて、それを「街でもやりましょうよ」という話になったのが始まりですね。結局私が代表になることになってしまったんですけど。でもさんざん色々な場所でアートプロジェクトを見てきて、自分の街の商店街がこんなに寂しいし、どうにかしようと思ったら自分にできるのはこういう事しかなかったっていうのが単純な理由です。
初回はとても規模が大きくて、総勢関わったアーティストが100組以上。夢みたいでしたね。2週間くらい毎日展示をして。準備の段階から色々な人が手伝ってくれましたし。埼玉から毎週準備に通ってくれる人もいたり。今度はベリーズに行くことも決まっていたので、精神的に参ることなく何とか無事にやり終えることができました。

――ベリーズでの生活についても聞きたいです。

ベリーズへは高校の美術教師として派遣されたんです。で、毎日気温35度くらいあってみんな南国特有のダラダラした感じなわけですよ。最初は日本人根性で「しっかりしてよ!」って感じだったんですけど段々とその波に飲まれて自分もダラダラしてしまいましたね(笑)。
でも音楽でのコミュニケーションを通して「歌ってこんなに力があるんだ」と思わされることがありました。向こうでは差別とか誤解って普通にあるんです。「日本って中国の一部でしょ?」とか「いやいやジャパニーズ!!」みたいな。で、あるとき地元の民謡を頑張って私がギター弾きながら歌ったら、みんなの態度がまるで変わったんですよ。私はただ良い歌があったから歌ってみたいっていうだけだったのに、もの凄い反応が良くて。本当にうわーっていうリアクションだった。
そうしたらライブハウスとか学校とかに呼ばれるようになって歌いにいきましたね。テレビにも出たし。でもテレビもひどくて「ベリーズの民謡を歌う中国人の女の子が…」とかなんですよ。「だからジャパニーズだっつってんだろ!」って(笑)。

――海外の人はアジア人に関して、そういう感じなんですよね。

本当にね。それから最後の半年間は教師の仕事に前向きになって、ダンスが上手な生徒のPVをとったり、その土地の地図を生徒に作らせたり、Tシャツコンテストをやってみたりしました。皆すごい喜んでくれましたね。だってその街には地図さえなかったから。誰もやらなかったことだから喜ばれたのかな。ものづくりで街の人とコミュニケーションをとっていくっていうのは「こうふのまちの芸術祭」も同じですね。
それにしても、思っていた以上にベリーズを好きになっちゃったので帰る時も凄い泣きましたよ。

――うわあ。それは愛着も湧きますよ。

70年前の甲州にあった独自性

でもやっぱり色んなところを旅して思いますけど、日本みたいに変わってて特徴のある文化を持つ国は他にないと思いますよ。最近、鍼灸の勉強を始めたんですけど、元々中国から来た鍼灸も今の中国の鍼灸と日本のものは全然違う。確かにこれからどんどん経済とか色々な面で厳しくなっていくと思うんですけど、私は日本って国が無くなってほしくない。ちょっと前に日本の食文化が世界遺産になりましたけど、そういう文化を世界に発信して守っていくことが大切だと思ってますね。
それから、「こうふのまちの芸術祭」を始めた当初は「甲府は楽しいから県外から人を呼びたい」っていうのが強かったんですよ。でも段々変に外を意識しなくても中で面白い事をやっていれば気になる人は来る。確かに難しいですよね、わかりやすく人が増えた方が「盛り上がった!」っていう感じになるから。でも本当にその土地が栄えるっていうのは着実に中の人の文化が豊かにならなきゃいけないのかなって思います。

――おばあさまから伝承したという山梨の「縁故節」についても教えてもらえますか。

70年くらい前、私のおばあちゃんが10代くらいの時に昇仙峡の裏みたいなところで流行っていた盆踊りなんです。七-七-五-七-七の節に合わせて参加者が即興で歌を乗せていく。その時好きな相手がいたらその歌詞で愛の告白をしたりとかしたり。おばあちゃんがやっていた時は楽器も無くて歌と手拍子でやっていたみたいなんですよ。
それを前から自分のライヴでは歌っていたんですけど、何回目かの「こうふのまちの芸術祭」の準備でおばあちゃんの家に仲間4人で山ごもりしたことがあったんです。その時にそれぞれに着想が降りてきて、新しい縁故節ができあがります。それが今「こうふのまちの芸術祭」の盆踊りになっているんです。
今ちょっとした盆踊りブームがあって日本のあちこちで新しい盆踊りが誕生しているので、いい意味で刺激になってます。あっちの村には負けられねえ、っていうところで独自性が生まれていくものなんじゃないですかね。

――今年も「こうふのまちの芸術祭」が開催されるんですよね。

もう始まっています!10月12日まで開催中です。最終日には、恒例のオークションハウスと、今年は盆踊りを銀座通り商店街で行います。一軒ずつじっくり見ると、本当に楽しい銀座通り商店街で一緒に遊びましょう!

――要チェキですね。本日のゲストは五味文子さんでした。ありがとうございました。

編集後期(小池)

今回のゲストは五味文子さんでした。
パンクスみたいに尖ってたっていう面は、他のインタビューにも共通するところがあるわけなんですが、それがJC(女子中学生)やJK(女子高生)の時から。しかも競技用の自転車BMXで通学してたなんて、JKオンザBMXですからね。ホント笑いました。
それにしても、海外に出てアートの面白さに開眼して故郷にそれを移植するっていうことをやる人が甲府から出ているのは嬉しいことであります。アートやサブカルチュアが華ひらくってその地域にとって絶対大事で、例えばソ連とキューバを比べても言えることなんですけども。
とまあ固い話はさておき(笑)、折角ですからこれを機会に甲府中心街で芸術の秋と洒落こんではいかがでしょうか。

五味文子(ごみふみこ)
1983年甲府市生まれ。
ハンガリー、沖縄で伝統工芸を学び、K’DLOKKや53235名義で音楽活動を行う。
中米ベリーズでは子供たちに美術を教え、現在は東洋医学を学びながら芸術活動を行っている。
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