KIYOMI KOBAYASHI

 

 

レペゼンヤマナシ#15
「自分がついて行きたいと思う大人になれたら」
小林清美インタビュー

 

久々の更新になります。甲州最前線のインタビュー企画『レペゼンヤマナシ』、毎回山梨出身のクリエイティブな方に会いにいっております。今回のゲストは山梨市出身のシンガーソングライターで、音楽教師もしていらっしゃる小林清美さん。山梨発のグループ、Peach sugar snowを「ウィスパーボイスアイドル」としてプロデュースし、アイドル界に大きなインパクトを与えました。独特のキャラクターを活かして、プロインタビュアの吉田豪さんと対談していたり、彼女の活動はとてもユニークです。今回は小林さんにこれまでのキャリアや、山梨への想い、現状のアイドルシーンについての考え、今えがいている夢など、多岐にわたるお話をしていただきました。(記者:小池直也、画像:徳山史典)

 

<小林清美さん:プロフィール>

K&Mミュージック代表。
自らもアーティストとして活動しながら、音楽教室の教師としてアーティスト育成も手がけている。

これまで藤子・F・不二雄アニメ「モジャ公」エンディングテーマ等、数々のアニメソングを担当した。最近では本人の宇宙トークや天然ぶりに注目が集まり、『テレビ東京、ゴッドタン』や『矢口真里の火曜矢口真里の火曜The NIGHT』等数々のTV番組に出演するなど、多方面で活動している。

 

 

 「デビューして上京、心病んで帰郷」

 

――現在はどちらにお住まいですか。

今は神奈川に住んでいて、神奈川・東京・山梨を行き来しながら活動してます。K&Mミュージックスクールを運営していて、山梨市と中野に教室があります。以前は新宿に教室があったのですが、地上げにあって中野に移転したんですよ。大変でした(笑)。

学校は八幡小学校、山梨北中学校、塩山高校、それから大学と通いました。小さい頃から、おもちゃのマイクを離さず持って歌っていたみたいです。3歳くらいからピアノを弾いて、勝手に曲を作っていました。小学校3年生の時はランドセルを背負って「好きだった人」という曲を歌っていた記憶があります。結構ませた小学生だったんじゃないですかね。

親の教育とかではないですよ。物心ついたときから歌しか興味がなかったんです。部活は卓球をやったり、相撲部のマネージャーをやったりしてました。

 

――本格的に音楽をやろうと思ったきっかけは?

18歳のときに『UTYカラオケ大賞』というテレビ番組に出たんです。伊藤薫さんが審査員でいらっしゃる企画で、山梨代表に選ばれて『長崎歌謡祭』という大会にも出ました。賞をいただいて、服部克久さんから「君は第二の辛島美登里になるかもしれない」と言われたのを今でも覚えてます。最終的に伊藤薫さんの事務所からデビューしました。

夢は叶ったけど、当時の思い出は忙しかったことしか覚えてないです。事務所からは「あれはダメ、これはいい」と制限があるし、こんなに大変なんだなと。例えば好きな人からもらった指輪やピアスを付けていたら「そういうのは絶対見せちゃダメ」と怒られたり。アイドルじゃなかったんですけど、モジャ公のエンディングを歌っていたりしたので、アイドル寄りな扱いだったと思います。縛りがあるから、どこかに行くにも絶対言わなきゃいけなくて。

でも一回だけ勝手に福島旅行したんですよ。そうしたら連絡が取れないと心配されて、社長が家に来て「いない」と。もしかしたら事件に巻き込まれたんじゃないか、ということで大事になりました。それは悪かったなと反省しています(笑)。

 

 

――もう少し当時の活動について教えてください。

FM FUJIでもラジオ番組を持っていたので、よく「勉強しろ」と言われていました。当時のFMラジオって洋楽をかけて語らないといけないので、すごく詳しくないとダメだったんですよ。あんまり聴きたくなかった曲も聴いて勉強しました。その経験は今考えると、よかったですね。

私はもともと辛島美登里さんとか、ダイアナ・ロスさんとかが好きでした。特にピアノを弾きながら歌っているシンガーソングライターが好きで。小林明子さんの「恋に落ちて」という曲も好きでした。まさか一緒の事務所に入れると思わなかったけど。

 

――当時「シンガーソングライター」って言葉はなかったですよね。当時の音楽業界も今と違ったのでは?

私の頃は、すごくお金が使われてました。ジャケット写真を撮るだけで沖縄に行くし、美味しいものをいっぱい出してくれたり、使い方が半端なくて 。例えば自分が安里さんが好きだといえば、ヘアメイクの方は安里さんの人だし、カメラマンはミスチルの人、衣装はオーダーメイド。レコーディングも、ランドマークタワーにあるスタジオでやってましたから。ぜいたくすぎますよ。今だったら絶対考えられない。

 

――そんな華やかな世界にいたのに、なぜ辞めて山梨に戻ったんでしょう。

東京に疲れちゃったんです。みんな「本当」がない感じでなじめなくて。「人ってなんだろう」みたいな感じで病んでました。もともと素朴な山梨の生活が根付いちゃってるので、ざわざわしてる所に行くのも苦手だし、電車も嫌い。当時は意を決して乗ってました。

事務所を辞めるときは、早く言わなきゃとずっと思ってたんです。そんなときに社長が「新しいアルバムを社長が作ろう」と言ってきて、もうこれは言わなきゃと。それで正直に話したら「それはそうだね」と、揉めることなく承諾してもらえました。

 

――なるほど。それから教室を立ち上げるわけですね。

そうです。山梨に帰った当時、安室奈美恵さんの成功で「沖縄アクターズスクール」みたいな学校が地方にたくさんできたんですよ。甲府の湯村にも「レオアクターズスクール」という教室があったので、最初はそこのお手伝いを1年か2年ぐらいやってました。

でも月謝がすごい高くて。歌がすごく好きだけど、やめなきゃいけない子がいたんです。その子は泣きながら「やりたいけど、お金がないからできない」と。だったらお金をそんなに出さない、例えば片親の人から月謝をもらわないとか、そういう学校をやろうと思ったんです。それで作ったのがK&Mミュージックスクールでした。

それがいなかったら、まだそこで働いていたかもしれないですね。その子は今23歳で、まだ所属していますよ。このあいだ結婚したので活動は休みしてるんですけど、付き合いはずっとあります。教室でやっていることは当時から変わってなくて、発声とかダンス、演技、幼稚園を小学校の子達まで、みんな同じように私自身がレッスンしています。

 

 

 

「あいさつが一番大事」

 

――幼児教育も以前から学んでいたとか。

デビューしたころ、お仕事をしながら山梨学院大学の保育科に通っていたんです。リトミックで子ども達に音楽を教えたり、歌いながら人形で遊んだりやってました。本当に幼稚園の先生みたいな感じで。今、自分が教室をやっているということを考えれば、勉強していてよかったです。

 

――帰って来た山梨はどうでした?

よかったです。癒されました。でも教室をやりはじめて、生徒たちが自分の力を試してみたいと言い出したら「やっぱり東京かな」と。事務所を東京に持っていないと対等に戦えない、という思いがあったんです。

Peach sugar snowも、ただのローカルアイドルでよかったんですけど、やはり「事務所はこちらにありますよ」って言えるのがイメージとしても大切で。それで3年ほど前、新宿に自分の拠点となる教室兼ライブハウスを作りました。

だから山梨に帰って、4年ぐらいで東京での活動を再開しちゃいました。私は裏方でいいかなと思ってたんですけど、現場に19歳のときから応援してくださっているファンの方が来てくれるんですよ。そうすると歌わないわけにはいかなくて、今でも歌っています。ロクデナシイタコというロックバンドも組んだりしちゃって、やることはたくさんです(笑)。

 

――せっかくの夢だった歌手デビューを果たしたのに「歌わなくてもいい」と思えるのがすごいですね。

だって歌わない方が楽じゃないんですか。体調管理に気をつけなくちゃいけないし、常に気を張っていないといけない。それに今は自分よりもこの子たちとか、誰かがブレイクしてくれたらいいな、というのが私の夢なので。自分は趣味程度に歌えればいいんです。

 

――なぜPeach sugar snowでは山梨を発信しようと?

やっぱり山梨は、ぶどうか桃。分かりやすくイメージしてもらえればと思ったんです。桃はアイドルっぽいじゃないですか。教室にやる気のある3人がいて「じゃあグループ組んじゃえば?」って。やるなら山梨を代表するアイドルだな、とピンときました。

CDを作って東京に戻ったら、タワレコTVの『南波一海のアイドル三十六房』番組で音源がが流れて、それが話題になったんです。その時は「ウィスパーボイスアイドル」じゃなくて、ただ声が小さいだけだった(笑)。でもそれを武器にすればいいんじゃないと思って「声が小さいんじゃなくて、うちはウィスパーボイスアイドルなんです」言ったら、それがまたたく間に広まってくれました。

カヒミカリィさんとかCharaさんは聴きますけど、それが好きかというとそういうわけではないんですけどね。最近デビューしたPeach sugar storyも評判が良くて楽しみです。

 

 

――マネジメントなどで苦労はありませんでした?

みんな子どもだから、親御さんがいてのアイドル活動なので。そこはちゃんとしていかなきゃいけない点ですから大変でした。とにかく私はあいさつが一番大事。あいさつができないのは、歌が上手くても論外です。教室に来たら「おはようございます」「よろしくお願いします」と言って、入らせるようにしてました。帰る時も「ありがとうございました」「お疲れ様でした」。

あいさつはどこの現場での楽屋でもするものだから、それは徹底してやらせましたね。言わなかったのを見てしまった時は、そこに誰がいようとすぐ怒りました。ある現場でもそういうことがあって、怒ったら親御さんが代わりに怒ってくれて「ああ、よかったな」と思ったこともあります。「この方針が無理です」いう方は辞めていきましたし、そういう事はどこにでもあるんじゃないですかね。

 

 

 

「自分がついていきたい、と思える大人に」

 

――ところで、小林さんは山梨のどこが好きですか。

素朴なところです。私は花とかもいいですけど、草が好きで。山梨のその辺に草が生えてるところが好き。世話焼きな方が多いですよね。みんな細かいことを知りたがるので、近所付き合いとかはちゃんとしてないといけないなと感じます。東京みたいに「誰が隣に住んでいなくてもいい」という世界じゃない。それはどうなんだろうと思う時もありますが(笑)、それもまた山梨だなと。

 

――東京と山梨で子どもの特徴が違ったり?

山梨の子たちは、例えば「お菓子あげる」と言ったら喜んで来るけど、東京の子は絶対もらってくれないですよ。私は子どもが好きなので割と話しかけるんですけど、東京ではそれが変質者だと思われるみたいで、防犯ブザーを鳴らしながら逃げられたことがある(笑)。

生徒としても、東京の子は飛び込んでこないですね。山梨の子は「せんせー!」って抱きついてくる。もっと無邪気でいいのにな、と思うんですけどね。そういう意味では山梨の方がのびのびしていて、東京の子は割り切ってるところがある感じがします。野生の感覚みたいなものは地方の子の方があるイメージだけど、基本的なポテンシャルは変わらないと思います。東京でも山梨でも目指すところは同じなので。

 

――別のインタビューで「山梨から通って活動するのが大事」という発言をされていましたが、それはなぜでしょう?

通えるなら通った方がいいと思います。出てきたらお金もそれなりにかかるし。高速バスや電車なら1000円か2000円ぐらいで来れちゃうじゃないですか。変に東京に揉まれちゃうよりもそっちの方がいいと思っちゃいます。自分もそうでしたから 。

自分が確立して上京するのと、そうじゃなくてするのとでは全然違います。例えばアルバイトしながらやらなきゃいけないから、歌や練習よりも生活の方が大変で、結局なにもできない人もいます。だったら慣れるまで通ったほうが絶対いいですよ。毎日仕事があるわけじゃないですし、仕事のときに出てくるくらいがちょうどいい。

 

 

――日本のアイドルシーンを見て、思うことなどがあれば教えてください。

私自身も活動してバンドもやっていますけど、なにかをやりながら「ついて来い」と言うのと、やらずに裏でただ「頑張りな」って言うのは何か違う気がするんです。私が頑張ってやってれば、みんなも「先生がこれだけ頑張ってるんだから、やらなきゃ」という空気感になると思うので。

「こういう大人だったら、ついていきたい」と思える大人に自分がなれたらいいなと思ってて。今の世の中、ただ能書きだけ並べる人がほとんどじゃないですか。そうじゃなくて態度で見せていきたいと思うんですよ。最近は体がついていかないので、無理やりスイッチ入れてやるんですけど。子どもたちと同じ年齢だと思ってパフォーマンスしちゃうんですけど、後で死んでますね(笑)。

 

――たしかに模範を示すことって、今の社会では軽んじられている気がします。

よくアイドルの運営さんがSNSで「こういう行為をしないでください」って呼びかけていて、めちゃくちゃ規制がある。いけないのは、そんな現場を作ってしまった運営さんだと思うんですよ。もともと「こうですよ」って接していれば、ファンもそういう風になっていかないのを私は知ってますから。

 

――アイドル業界も内部は男性社会だと思うのですが、そういう意味で葛藤されたことなどはあります?

何もないです。むしろ女性だから「こうだよね」ってみんなに言えることが多い。たぶん男性の運営さんだったら今の教室も運営できてないと思う。女性だから良かったなと思うことの方があります。男性と女性で感覚が違うから、男の人だと女性にうまく寄り添えない部分があるのかなと思うんです。そこがアイドルを取り巻く、現在のいろいろな問題につながってるのかなと。

私なんか恋愛オッケーなんですよ。禁止なアイドルさんが多いですけど、私は「恋愛しろ」って言います。それは自分がしたいからで(笑)、自分がしたいから「みんなもしていいよ」って言う。縛らなさすぎていいのかなと思う時があるくらいです。

 

――今後の展望は?

毎年『山梨あいどるフェスティバル』を、いろいろな方のご協力もあって、山梨市民会館で企画しています。それはずっと続けていきたいと思います。自分たちが一生懸命投げても、山梨の人が盛り上がるっていうのはなかなか難しい。それでも投げていかないとだめだと思ってます。「こんなのやってるんだね」って気にかけてくれるだけでも嬉しいです。

 

――反応がないことに疲れてしまったりはしませんか。

東京とか他の地方では疲れちゃうけど、山梨ではそう思いません。いつかはプロデュースしてる子たちが、大きい舞台でパフォーマンスしてる姿を涙を流しながら見たいですね。

 

 

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