SHINSUKE TANOGUCHI

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レペゼンヤマナシ#16
「正しく夢を見て、正しく叶えてほしい」
田野口真介インタビュー

 

甲府が開府から500年ということで、おめでとうございます。2021年には武田信玄公の生誕500年となりますが、認知度はまだまだ低いというのが現状。山梨には素晴らしい文化がたくさんあるので、それを広める一助に私もなれたらと思い、山梨出身者関連のおすすめプレイリストを作成いたしましたので、興味のある方は聴いてみてください。

 

 

さて私事ですが、昨年12月に東京ドームで行われた「UVERworld KING’S PARADE 2019 男祭り FINAL」を観に行ってきました。男性だけで埋まった現場は圧巻で貴重な体験をさせていただきましたが、このバンドにディレクターとして関わっているのが山梨出身者であることを知る人は少ないと思います。

今回の甲州最前線インタビュー「レペゼンヤマナシ」でお話を伺ったのは、ロックバンド・UVERworldのA&Rとして現場で仕事をされている田野口真介さん。彼は上記プレイリストにも入っているthe courtというロックバンドでドラムを担当されていたのですが、なぜ今レコード会社で働いているのでしょうか。生い立ちから現在まで、たっぷり話していただきました。(記者:小池直也、サムネイル:徳山史典)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「山梨→東京→山梨→茨城→山梨→東京⇔山梨」

 

――まずA&Rは一般的に聞きなれない仕事だと思うんですが、具体的にどのようなことをされているか教えてください。

Artists and Repertoire(アーティスト・アンド・レパートリー)の略です。アーティストに関するいろいろなことをする人で、ディレクターとも呼ばれます。アーティストが100組いたら100通りの仕事があって「こんな曲を作ろう」とか「こういうリリースプランにしよう」など、リリースにまつわることを決めたり、コントロールしたりします。あとはこういうアー写(アーティスト写真)にしようとか、そういうアートワークならこういうデザイナーさんと仕事をしよう、こういうMVを撮ろうとか。プロモーションプランを考えたり。本当にいろいろやります。

 

――なるほど。それでは田野口さんについてお話を聞かせてください。出身はどちらですか?

生まれは甲府なんですよ。でも父がサラリーマンで転勤が多かったんです。生まれて2年くらいで東京に引っ越して、幼稚園から山梨に戻って双葉町に住んでました。それから小6から中学校3年間は茨城、高校は甲府一高です。

 

――バンドもやられていたんですよね?

音楽を始めたのはシンセサイザーからでした。小学校の時にアニメ『シティーハンター』の再放送を見ていて(笑)、エンディングのクレジットを見たらTM NETWORKって書いてあった。ちょうど活動終了する頃。歌謡曲よりも、そういう曲の方が尖って見えたんですよね。それで鍵盤を使った編成でああいう音楽をやっているのを知って、キーボードとシンセサイザーをお年玉で買ったんです。だからスタートはシンセでした。

バンドを始めたのは中3の学園祭です。キーボードで参加したつもりだったんですけど、本番の10日前くらいにドラムをやる子がケガが何かで叩けなくなって、ヴォーカルに転向してツインヴォーカルにするって言うんですよ。「じゃあドラムどうする?」となったんですけど、休憩時間に僕が叩いてみたら「お前できそうじゃん!」って言われて。結局「ドラムの方が目立ちそうだし」と思ってドラムを始めました。

 

 

――高校時代についても教えてください。

軽音部(甲府一高のフォークロック部)に入りました。シンセサイザーを続けてたんですけど、部室にあるドラムを叩いたら「お前できそうじゃん!」って(笑)。ただ楽器人口が少なかったんだと思いますけどね。それで高校でもドラムでコピーバンドをやったり。メロコアを聴いて「すげえ速いな、この音楽」って思ったのも覚えてます。甲府のYesterdayというライブハウスで演奏したことも懐かしい。

あの頃は洋服屋さんもいっぱいあったし、甲府の街中でよく遊んでました。PASEOに入ってるお店で知り合った大学生の先輩とバンドをやったりして。大学生だから車を持ってて、いろいろ連れてってもらいましたよ。オリジナルの曲とかもやってましたね。

 

――その後は美容の専門学校に進学されたとか。

そうです。東京の国際文化理容美容専門学校で勉強しました。小6の時に初めて美容院に行ったんですけど、オシャレな美容師さんが自分にとって憧れだったんです。当時はあまり勉強ができなくて、将来何をしたいか考えた時に音楽は浮かばなかったんですよ。崇高なものに見えてて、商売に結びつかなかったんですよね。今より情報もありませんでしたから。

でも専門に通いながらもPASEOで出会った先輩とバンドをやってて、東京から毎週山梨に帰ってスタジオ練習してたんですよ。20号沿いにあった頃の甲府CONVICTIONでライブもしてました。この頃はKornや、Slipknotとか、ちょっとミクスチャーっぽいメタルに憧れてました。やってたバンドも、割とそういう音楽性だったと思います。

 

――就職活動はされたんですか?

バンドを辞めて、甲府のVISIONという美容室に就職しました。当時は東京は当時あまり好きじゃなかったんですよ。お金がなかったからだと思いますけどね。学校が忙しくて、バイトもできなかったから。それに週末は山梨にいたので「別に東京じゃなくてもいいかな」って思っちゃったのかもしれない。

今思えば、みんながバラバラのところから集まってきて「はじめまして」って機会も少ないですよね。東京には自分よりできる人も、自分よりカッコいい人も、自分より頭の良い人も多かったので「自分は生き残れないかも」って感じて帰ったのかもしれません。

結局、美容師も1年くらいしかやってないんですよ。やっぱり「バンドをもう少しやりたい」って思ったので。東京の洗礼を受けながらも、自分が楽しいと思えるのが多分バンドだった。だからといって「バンドで売れたい」とかそういう気持ちはなくて「ちょっとバンドやってまた美容師に戻ればいいや」という程度でしたけど。

 

 

 

「自分は演者じゃなくても良かった:A&Rへ」

 

――なるほど。

その頃(2001年)に「甲府KAZOO HALL(ライヴハウス)を作る」っていう話があったんです。当時一緒にバンドをやってた先輩がそれを手伝ってて、僕もそれに参加したんですよ。何もない倉庫に天井を貼ったり、壁は畳で防音したり、最初のKAZOO HALLはとても手作りな場所でした。仕事も辞めちゃったし、その流れで僕もKAZOO HALLで働くことになって。それから先ほどの先輩たちとSMITHというバンドを組んだんです。

1年くらいバンドを続けて、ツアーとかもやりましたが「そろそろやめようか」と。そんな時にO-frontという友達のバンドのドラムが辞めて「サポートでもいいから」と誘われたんです。そのままメンバーになって、K-PLANというインディーズのレーベルからCDを出しました。

 

 

――K-PLANには当時、the band apartやWRONG SCALEといったバンドが在籍して、僕も憧れていました。川谷絵音氏の音楽性にも影響がみられますよね。

the band apartは本当にかっこよかった。初めて上京した時にTVK(テレビ神奈川)で映像を見て「聴いたことないことやってるな」って思ったのが最初ですね。一番身近で目標にできる人達だった気がします。時代を切り開いているというか、それまでに無かったものを作った人ではあると思いますよ。発明っていうと言い過ぎかもしれないですけど、それに近いものがあるんじゃないですかね。

 

――当時、マキシマムザホルモンなどの有名バンドが東京からしばしば来てました。逆に甲府のバンドも甲府に行ったり、山梨/東京間で音楽的な往来が盛んだったイメージがあります。

あの頃に盛んになったんでしょうね。NoBがそういう風を持ってきてくれて、山梨のライヴハウスって知られてなかったけど、いろいろなバンドが来るようになりました。県内のバンドも増えたし、高校生とかもライブを観に来るようになりましたね。

 

――私もKAZOO HALLでNoBの故・鎌田真輔さんが企画した「集え若者!拳を上げろ!!」の第1回目に出演しました。30分の枠を1時間やって、怒られた覚えがあります(笑)。その後、田野口さんは上京されますね。

はい。だんだんとO-frontのライヴが増えてきて、the courtと改名し東京に拠点を移すことになります。バンドも。少しずつ「こうやるとお客さんが楽しんでくれる」とか「こうすると好きになってくれる」ということに気付き始めたんですよ。だんだんと「バンドとして大きくならなきゃいけない。売れたい」と思うようになった。バンドを続けるためには大きくならなきゃいけないですから。

その頃は多分、僕は恐らく山梨にいたくなかったんですよね。言葉を選ばずに言うと、小さいコミュニティに自分が生きていて、いつからか周りを気にするようになっていたんです。自分が大きいことを大きい声で言いづらくなってきていた。「山梨を捨てた」みたいに思う人もいたかもしれませんが、誰かの目を気にして生きるのが嫌になってしまったんですよ。東京に行った方がもっとやりたいことが叶いやすいんだろうなと感じてました。

 

 

――the courtの活動は大きなものになった様に見えましたが。

上京してからは、漠然と「メジャーで勝負したい、売れたい」という気持ちで試行錯誤してましたね。何百人と人は来てくれるようになってバンドはすごく楽しかったんですけど、僕は演者じゃなくても良かったと思うんです。バンドの経済とか、ビジネスすることも楽しかったですからね。数字で見えるから結果が見えやすいですし。そういう裏方の仕事に面白さを覚えていました。

バンドはK-PLANを抜けて、半年くらいソニーで育成してもらっていたんです。でも「自分たちはこうありたい」という想いがあって。売れたいから大きな会社に入ったけど、許せないことが多かったんです。そうすると自分のバンドではビジネスはできないって思っちゃたんですよね。「何でそこまで口出してくるんだ!メジャーはやっぱりダメだ」みたいな。でも今までやってきたことがそのまま大きくなるわけがなかった。今はよく分かります。

メジャーから離脱し、また自分たちで活動するようになりました。お世話になっている人もいたのでライヴもできたし、レコーディングもできたし、これはこれで良かった。もう一度バンドを大きくすることを考えるんですけど、やっぱり手持ちのカードだけじゃ何もできない。でもライヴしなきゃいけないし、新しい曲も作らなきゃいけない。最終的に自分たちの力じゃもう大きくできない、限界だなと。それで、ある日突然「バンドを辞めよう」と思っちゃったんです。その日のリハーサルで僕から「辞めたいんだよね」とみんなに相談しました。

 

――他のメンバーは驚いていませんでした?

どうだろう? うすうす分かっていたのかもしれません。口に出していないだけでみんな悩んでたと思いますよ。ヴォーカルのトツ(鴇崎さとし)君はすごく才能があるけど、規模を大きくしていく方法は彼にもわからなかったはず。上手く続けていく方法もあったかもしれないけど、僕は続けられなかったですね。でも揉めたりは全然なくて「決まっていたツアーが終わったら辞めよう」とみんなで結論を出しました。

 

 

――その後に今の仕事を就かれたと。

ライヴハウスのブッキングの仕事も辞めて、就活してました。その頃は音楽の仕事とは考えてなくて、やったことのないIT系のベンチャー企業とかに応募しましたよ。「ドラムが叩けます」って言うと、面白がって会ってくれたりして。

そんな時にソニーの人から「バンド辞めるみたいだね」と連絡をもらったんです。それでフラっと遊びに行ったら、話の流れでソニーミュージックに雇ってもらえることになりました。それが29歳のときです。

 

――そんなことがあるんですね(笑)。

僕もそんなことあるんだって感じですよ。会社に入ってからはまず新人発掘の部署で、制作もやりながらマネージャーもやる、みたいな仕事を2年弱してました。インディーズ・レーベルみたいな感じですね。10代アーティストだけのフェス「閃光ライオット」にも携わらせてもらいました。その頃は漠然と「今後はマネージャーとかになるんだろうな」くらいしか考えてなかったですね。でも突然異動を受けて、今のレーベルにディレクターとして配属になるんです。

 

 

 

 

「山梨がもっと夢を見れる場所になればいい」

 

――演奏をしなくなったことに後悔はありませんでした?

なかったです。担当しているアーティストがいかに努力しているかを現場で見て、自分が至らなかったことが分かりました。ただ会社での最初の3年は本当に未知の世界でしたね。何万人というお客さんを相手にするアーティストに携わらせてもらう、という実感がなかったんですよ。

やっぱりバンドと話し合って取り組んだことで結果が出たら純粋に嬉しいですし、やりがいはありますよ。レコード会社にいると数字で物事を考えることが多くなりがちですが、会場の一番後ろの端で観ているお客さんが泣いていたりすると、やっぱり感動するんですよね。オリコン○位ももちろん嬉しいですが、大事なのはそこではない気がします。

 

 

――UVERworldのみなさんと最初に出会ったときの印象を教えてください。

真面目な人だなと思いましたね。音楽に対して本気で生きている人たちだと。当たり前ですがプロフェッショナルですよ。どんなバンドか尋ねられたら「どんなロックバンドよりもロックだし、どんな歌モノのバンドよりも良い歌を歌うし、どんなに激しいと言われるバンドよりも激しい」と以前から説明してきました。

どちらが良いとか悪いじゃなくて、自分が今まで見てきた世界と全然違いましたね。彼らはバンドマンだけど、あまりバンド村の人じゃないんですよ。僕の方がどちらかというとバンド村の人だったと思います。

 

――やりづらさは感じませんでした?

ありましたよ。すでに彼らは売れていて、東京ドーム公演もやってましたから。「自分に何ができるんだろう?」と存在意義がわからない時期も長かっです。自分が歯車になって今までにない大きな力を生み出せるのか、と人生で一番考えた時期でした。

 

――ターニングポイントとなった出来事があれば教えてください。

ちょうど彼らのデビュー10周年のときですね。会社では3年くらいで担当変えがあって、僕もUVERworldを離れたことがありました。個人的には寂しかったし、悔いもあったけど会社の決めたことだと思い、別のアーティストを担当していたんです。

そうしたら半年後に彼らの担当に復帰したんです。どうやらメンバーが「田野口を戻してほしい」と事務所とレコード会社に頼んでくれたみたいで。「なぜだろう?」と思ったんですけど、少なくとも必要とされたことに気付いたんです。実感はあまりなかったですが、戻してもらったからには思いっきりやろうと決めました。「そんなことするなら要らないよ」とクビにされたら本望だなと。

そこからですね、しっかり向き合って仕事を全うしたいと思うようになったのは。それが忘れられない出来事です。

 

――今の山梨のイメージはどうですか。

10年前よりは文明も発達して、東京にいなくても仕事ができる時代です。だから友人も山梨にオフィスを構えてますし、そこから何かを発信している人がいることも何となく耳にしますよ。前から山梨って新宿から1時間半くらいで着きますけど、昔よりも距離感が近くなった気がします。東京から最短距離の田舎というか。

僕も年齢を重ねて山梨にしばしば帰るようになりました。ほったらかし温泉も好きで(笑)。自分の青春時代を過ごした街を帰った時に歩いてみると、若い子が甲府の中心で遊ぶってことはあまりなさそうです。お店は増えているみたいですけどね。東京がすごいなんて1ミリも思いませんが、山梨がもっと夢を見れる場所になればいいなとは感じます。

 

――先ほどお話した、昔の甲府のバンドシーンみたいに、東京・山梨間で良い文化貿易が増えたら良いのかもしれません。その頃の流れは音楽フェス「GIANT LOOP FES」という形にもなっています。

貿易が増えたらいいですよね。自分たちが作り上げたものと外のものを混ぜていくのは大事。

 

――今後やりたいことなどがあれば教えて下さい。

違うアーティストと仕事をしたいし、今担当しているアーティストとも楽しいことをやり続けたいです。大人になると時間の使い方が分かってきて、仕事以外の旅に出て、写真を撮ることが増えてました。最近もひとりでベトナムへ行きましたし。

夢としては「世界を使って何かをやってみたい」というのがあります。歴史にも興味が出てきて、文化的背景を楽しめるようになってきました。「だから今こういう街なんだな」と理解できる。何事にも理由があるし、それを検証するのが楽しいんですよ。自分が世界の大きな流れのひとつになれると良いですね。でも名前を残したいわけじゃなくて。ただそこに充足を感じるんです。

写真も頑張りたいですね。写真を好きになったのは、UVERworldのライヴの写真を撮るようになったことがきっかけなんです。A&Rって、ライヴ中はあんまりやることないんですよ(笑)。あとは気持ち良く、最高の演奏をしてもらうだけなので。

 

――最後に山梨の若者にメッセージをお願いします。

正しく夢を見て、正しく叶えてほしいと思います。その方法は山梨でできるかもしれないし、山梨じゃできないかもしれないけど、自分でちゃんと選んで生きてほしい。それは僕自身が今も考えていることでもあります。

 

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